京野正午IMPRESSION / 2025/07/27

[ 感想 ] :: IMPRESSION

『石になったの?Vol.2』

2025/07/27

はじめに

「石になったの?Vol.2 特集=短歌」(配信終了済み)を拝読しました。我妻さんの短歌20首連作、平岡さんの10首連作、暮田さんの一首評、平岡さん×暮田さん対談という超豪華な構成となっており、本当におもしろくて色々話したいなという気分になりました。

このネプリを読んで感じたこと、ふだん短歌について考えていることを拙いながらまとめてみようと思います(改めて読み返してみるとえらそうな表現ばかり使っていて、誰が言ってるんだと突っ込みながらお読みいただけるとありがたいです)。

我妻俊樹「待ち夏」

夏の舌になってる もらったウィスキー、もらった桃の傷にたらして

しっぽかと思わせといて引っ張ればほどけるリボン ゆたかな包み

我妻俊樹「待ち夏」

我妻さんの連作は、「この世ならざるもの」の気配に満ちている感じがしてすごく素敵でした。今回、我妻さんも平岡さんも「夏」が連作テーマのひとつになっていると思うのですが、我妻さんの歌からはお盆くらいの時期をイメージして、そこから勝手な連想をしてしまったのかもしれないです。

掲出歌の一首目、実際に起こっている景として読んでも魅力的なのですが、「ウィスキー」「桃」という単語が非常に示唆的だなと思いました。具体的には、桃には不老長寿のイメージがありますし、ウィスキーに関しても以下のような情報があります。

ウイスキーの名前の由来は、ゲール語で「生命の水」という意味のウシュクベーハー(Uisge-beatha)を語源としたものと言われています。

サントリー公式HP (https://www.suntory.co.jp/customer/faq/001775.html)

ウィスキーも桃も生命を象徴するものであり、それを「もらう」ということは、逆説的に主体は生きている存在ではないのかなと考えさせられます。「夏の舌になってる」というのも、はじめは「お寿司の口になってる」みたいなニュアンスだと思っていたのですが、身体自体が舌になってるような(夏仕様の舌?)感覚があり、とてもおもしろいです。

掲出歌の二首目については、たぬきっぽい見た目のかわいい妖怪を想像して顔がほころびました。しっぽを引っ張るとするすると解けていって、最後には忽然と姿が消えてしまうような。ただ、結句に「ゆたかな包み」と置かれることで、歌の世界が反転するような感じがします。ラッピングされた大きな箱があって、主体はそのリボンをしっぽだと(もしかしたら亡くなってしまったペットのかもしれない)幻視して引っ張ってしまう。夢の世界が、引っ張る動作とともに現実に変容していく。これは短歌だからこそ起こせる魔法のような気もします。

平岡直子「1999」

マカロニの無数の穴がいっせいに黙る 七月 耐えられないわ

平岡直子「1999」

怖い短歌がすきです。ホラー的なわかりやすく怖がらせてくる歌というよりは、一見普通に見えて不穏な空気が漂っていたり、背後から誰かの視線を感じたりするような。『起きられない朝のための短歌入門』では、短歌の読みについてアプリのインストールで喩えられていましたが、私の場合は「不穏な短歌」のアプリがプレインストールされているのではないかと思います。

今回の連作のテーマがホラーというわけでもないですし、解釈も間違っていると思うのですが、平岡さんの掲出歌は特に「ジャパニーズホラー」のようなじっとりした不穏な空気感に満ちている感じがしてすごくすきでした(マカロニサラダだとして、サラダ記念日の歌の対極にある感じ)。

穴の空いた食べ物っておもしろくて、なんというかその「穴」の方に注目が集まる気がします。ドーナツホール(ハチ)というボカロ曲もありますし、卑近な例でいうとちくわにきゅうりを入れたりだとか、マカロニにお箸を刺して遊んでみたり。その中でもマカロニが特殊なのは、その穴がかなりの量集まっていることだと思います。集合体恐怖症の方は結構苦手かもしれない。そのマカロニの穴たちが「いっせいに黙る」というのは、逆に言うとこれまでぺちゃくちゃと喋っていたということで、その光景だけでもぞわぞわする感覚があります。黙るというのは閉じるということなのかなと考え、それもかなり不気味です。耐えられない。「七月」も、炎昼のまっただなか、厭な汗が噴き出てくる感じがあってぴったり当てはまる言葉だと思いました。連作中の他の歌も、改めて読み直すと少し怖くなってきます。

内容に直接の関連があるわけではないですが、下記の洒落怖(ネットの怖い話)を思い出しました。

https://dangi.link/%E7%A7%98%E5%AF%86%E3%81%AE%E5%A0%B4%E6%89%80/

暮田真名「木下龍也一首評 ホテル・キノシタ」

読者にとって作者とは、ときに目の上のたんこぶだ。いわゆる「ふつうの読者」――「純粋読者」といってもかまわない――は、作品を読むとき、常に他人の家に招かれたようなきまりの悪さを感じている。(中略)「作者がいる」ということがどれだけ読者の気持ちを怯ませるかということについては、「サラ川」に作者名らしい作者名がないことが逆説的に示している。

暮田真名「木下龍也一首評 ホテル・キノシタ」

暮田さんの短歌の評のすごさというのは、ニセ宇宙や短歌・川柳耳学問で知り尽くしていたのですが、この一首評も短歌コミュニティについて核心に触れている文章だと思います。

世代の近さという要素もあるかもしれませんが、暮田さんの評はとてもわかりやすく、幅広い層の読者を想定してくださっているように思います。過度に難解な用語や評論独自の言い回しもなく、噛み砕いて説明してくれている。そこのリーダビリティーが高い分、この評はかなり刺さりました。

ここで書かれている「きまりの悪さ」は、読者≒作者である短歌の世界において見過ごされがちな要素です。私のように結社に所属せずSNSでのみ短歌を発表しているような人は特に意識するべきかもしれません。このコミュニティがお互いのインテリアにコメントし合う互助社会だとして、完全に自分の趣味で塗り固めたレイアウトにする(=共感を拒む)のか、それとも木下さんのように自分を消してホテルに徹する(=共感を受容する)のかというのは悩んでいく必要があると思います。共感は「あるある」と言い換えることもできると思いますが、難しいのはそのあるあるネタが既出だった場合に、読者が(少なくとも私は)急激に冷めてしまうことです。誰も見つけていないあるあるを見つけるゲームは労力ばかりかかってそんなに楽しくなさそうですし、かといって「ないない」の方も飽和しているような…。下品な言い方ですが、この時代のポジショニングって結構大変だなと思います。模倣と言われるのはたまったものじゃないです。

また、川柳を作っている身として「サラ川」についての言及には深く共感しました。私がサラ川を苦手な理由は、ひとりの「人間」が書いている気がしないというか、大多数に伝わるように希釈されまくって作者すら透明になっているような感覚があるからなのですが、作者名が事実上ないというのもその状況を表していると思います(だからこそこんなに人気なのでしょう)。

ただ、書いていて気づいたのですが、私はサラ川は苦手だけど木下龍也さんの短歌はだいすきで、作者の透明化という点においては矛盾しているような気がします。そこで思い至る残酷な考察として、結局のところホテルなら何でもいいというわけではなく「ホテル・キノシタ」だからみんな快適に過ごせるんじゃないのか、木下さんは短歌の中で作者の匂いを消せる超一流の歌人だけど、(あなたのための短歌でもそうですが)読者は作者が木下さんだとわかった上で安心して身を預けられるんじゃないか、といったことを思いました。いい意味でも悪い意味でも、作品はあくまで作者と不可分な存在なのかもしれないです。

平岡直子×暮田真名 特別対談「『人生派』は悪口ではない」

平岡 なんか「言葉派」という概念が美化されているというかなんか神秘的なものみたいな扱いよね。

平岡直子×暮田真名 特別対談「『人生派』は悪口ではない」

伝わらない前提で喩えると、お見送り芸人しんいちさんとZAZYさんのラジオを聴いているみたいな、やばいものを読んでいるという興奮がありました。「本当」すぎるというか、炎上する/しないのギリギリを攻めている感じがあります(我妻さんの投稿で知ったのですが、もともとLINEのやり取りだったんですね)。私も誤魔化さずに本気で思っていることを書こうと思います。

人生派/言葉派について言及するにあたって、髙良真実さんのnoteに従いいくつか文献を読みました。怠惰すぎてネットで読めるもの(吉田さんの時評濱松さんの月のコラム)しか読めておらずすみません…。これまでの流れをざっくり把握した上で、私の意見としては「人生派」「言葉派」の分類は功罪であると思っています。

いい点としては、この分類が提唱されたことで現代詩的なポエジーを追究した作品が読みやすく(書きやすく)なったことです。勝手な偏見ですが、私含め最近短歌を書き始めた人たちは、一度は「言葉派」という響きや作風に憧れを持つんじゃないかなと思います。中高生がAndroidのスマホじゃなくて最新のiPhoneを欲しがるみたいな。第三滑走路さんのYouTube(動画の28:40あたりから)でも軽く触れられていましたが、もともと「言葉」をやっている少数の人たちがいて→カリスマ的な空気を感じ取った新人がいて→そっちがデフォルトになった、みたいな経緯があるのかなと。

悪い点というか、これは本当にただの逆恨みなのですが、人生/言葉に限らずこのようなシンプルな分類は評論を書く人には便利かもしれないけれど、作品の書き手側にとっては言われても困ることな気はします。対談では「人生派」が悪口になるかということに焦点が当たっていましたが、逆にどれだけ言葉派に憧れていたとしても「あなた言葉派ですね」と言われて喜ぶ人いるんですかね? それはそれでダサい気がします…。 いいか悪いかはさておいて、この分類が生まれたことで作者自身が自分の立ち位置を把握しやすくなった。一方で、「分類」自体のうっすらした気持ち悪さみたいなものを私は感じていて、ちょっと前で言うとイエベ・ブルベとかMBTI、最近で言うと骨格がどうとか、決めつけるのも大概にしてくださいねーという気持ちはあります。

その上であえて枠組みに乗っかると、私は短歌で人生のことを書きたい(逆張りの逆張り)ので、人生派→言葉派のコンプレックスみたいな感情は正直心当たりがあります。この屈折した感情の根源をたどっていくと、「わからないことに対する恐怖」に行き着くのではないか、と考えています。 短歌を始める人は、自覚的であれ無自覚的であれ少なからず自分の読解力に自信があるような人たちで、日本語で書かれていて知っている語彙が使われている文章ならすべて意味がわかるはずだ、という考えが根本にあるような気がします。その状態でたとえば我妻さんの短歌に触れたとき、しかも多くの人が作品を褒めているとき、強烈な疎外感(コンプレックス)に襲われるんじゃないかなと。 本当は「わからない」と「おもしろい」は確実に両立できるのですが、人生をメインに据えて作っているとなかなかそう思えるようにならないというか…。

ただ、私の話になってしまうのですが、こういうコンプレックスって現代川柳を作り始めてから少し解消されたような気はしていて、わからなくていいんだというのがデフォルトになったのもそうですし、「言葉欲」みたいなものがうまく発散できている感覚があります。読者の層というかノリも結構違うのかなと思っていて、現代川柳だとたとえ句がすべってもすべりごと受け入れてくれる感じがあるのに対して、短歌だとそのすべりを分析されるみたいな、妙な生真面目さがあると思います。

あとは、単純に「人生」と「言葉」って重みが釣り合ってなさすぎると思います。人生派のひとが作品を否定されたときに「あなたの人生はテンプレで既視感がある」と言われてる気分にならないでしょうか。短歌ではなく俳句ですが、東日本大震災をテーマにした作品が受賞したときに「リアルじゃない」という理由で怒っている人の文章を最近読んで、結構気分が悪くなったといいますか、決めつけているのはそっちじゃないかという気持ちになったのを思い出します。

また、対談では人生派のカリスマである具体的な歌人の名前を挙げて担ぎ上げていこうという着地だったのですが、「人生派」と言われて傷ついたポーズをとってみせる人たちって、結局自分が褒められたいだけだから効果は薄いんじゃないかなと思ってしまいました。人選に関してはめちゃくちゃ納得です。

最後に

長い割に内容が薄くて、しかも自分語りの割合が多くて申し訳ないです。対談の部分に関しては、エアリプだけではなくもっと議論が盛り上がってほしいなという勝手な希望で露悪的な表現を使いました。 「石になったの?Vol.3 特集=??」、本当に楽しみです!